本当に価値ある情報

本当に価値ある情報
本当に
価値ある情報は
直感である
アルバート・アインシュタイン

そうだと、心から確信しています。

その直感を裏付けるために
データがあったりするわけで、
まずは何かの閃きが道を作ります。

あとからその直感を見返すと、
完璧ではないかもしれない。

でも、
その直感のお陰で何かに気づいたかもしれない。

研究の世界ではよくある話で、
ずーっと考えていると、
ふとした瞬間に何かと何かが繋がり、
新しい発見が起こる。

新規のゲシュタルトが形成された瞬間だと
ぼくは思っています。

ちょっとこの言葉自体は良いとして、
その意味はというと、
「言葉にはしづらいけど、たしかにそうだよね」

って言える状況を言います。
これを理解するための分かりやすい諺があるんですよ。

「群盲、象を評す」

この諺には物語があります。
とある王国でのはなし。

目の見えない人たちが集まって(群盲)、
これまで一度見たこともない(目は見えないけど)
ある生き物を触ったうえで、
その動物を言葉で表現し始めました。
・柱のようなものが4本あった
・柔らかい長い筒のようなものがあった
・固くてすべすべした長い棒があった
・触り心地はざらざらしいて、硬い
・おおきな平べったいものがあった

それぞれが自信満々に言うものだから、

お互いがお互いに対して
「いやいやそんなはずない!」
「おまえは間違っている!」
と喧嘩が始まって、大混乱(象を評す)。

それを見ていた王様が、
みなを制止して、いいました。

「お前たちが触った動物は、象という生き物だ」
「お前たち一人ひとりが言っている事は、すべて正しい」
「ただ、部分を言い表しているに過ぎない」

この諺で言いたいのは、
人間は「象」というものを
全体として理解しているからこそ
象の長い鼻や大きな耳だけを見ても、
像だと確信を持って言える。

一方で目が見えない者にとっては、
象という全体像(ゲシュタルト)が
形成されていないために、
どのような素晴らしい表現で言われても、
象を本当の意味で理解できない。

部分を組み合わせただけでは、
全体を再構成できません。。。

先ほどの「群盲、象を評す」の例もそうですが、
「親」と言う感じを部分だけで表現すると、
「立」と「木」と「見」からなる漢字で、
左側に立と木があり、右側に見がある。
って言われるよりも、
「親」って一遍書いてあげるのが1番伝わるんです。

まず全体像を押さえ、
そのあとで部分を理解するんです。

全体の中での部分の位置を知らないと、
全体⇔部分を行き来できる連続性を持てないため、
非常に限定的な情報だけで判断を
強いられてしまいます。

この考え方は、
デカルトから始まる近代合理主義的な
思索方法とは逆のアプローチになります。

現代科学では要素分解主義なので、
部分を理解すれば全体を理解できるという立場なので、
まさに「群盲、像を評す」なのです。

話を戻すと、
直感は大抵の場合、
全体に対する想像であることが多い。

だからこそ、その感覚を維持しつつ、
部分の検証を行うという姿勢が必要なのだ!
と、アインシュタインは言っているのだと
僕は理解しています。